岐阜提灯とは?
岐阜提灯は、現在では、お盆に先祖が迷わず里帰りされるときの目印として使われる、「お盆提灯」と言った方が分かりやすいかもしれません。
日本人は暑い夏を過ごすため、生活にさまざまな工夫を凝らしてきました。
風通しを追及した「日本建築」や気化熱を利用した「打ち水」、耳で涼を感じる「風鈴」。その一つに岐阜提灯があります。風に涼しげに揺れる提灯の姿。その景色を日本人は涼と感じてきました。これは視覚から涼をとるという日本人独特の文化で、岐阜提灯は古くから納涼用として広く使われ、その後お盆の迎え火としての役割を持つようになっていきました。
岐阜提灯とはおもに、岐阜で生産されるものを総括的に岐阜提灯と呼びますが、厳密には、吊り提灯で上方に手板と呼ばれる装飾された板があり、薄紙張りの卵型の提灯に花鳥画などの繊細優美な絵柄を描いたものを言います。また、現在国の伝統的工芸品に指定されている岐阜提灯では、0.7mmほどの極細の竹ひごを巻き、典具帖と呼ばれる極めて薄い美濃和紙または絹で張り上げた火袋に、手描きまたは摺込により絵柄が施された精巧な工芸品を指すと定められています。
では、なぜ岐阜が産地として発展したのでしょう?
現在、岐阜提灯が生産される岐阜市は市内中心部に、織田信長公の居城でもあった岐阜城天守のそびえる金華山があり、その裾野には広大な竹藪が広がっていて良質な竹の産地でした。そのほとりを流れる清流長良川は水運の拠点として発展します。また、長良川上流には世界無形文化遺産にも登録されている美濃和紙の生産地があり、岐阜の町は良質な竹と和紙の集まる集散地になりました。現在でも金華山の麓、長良川沿いには湊町があり、当時の繁栄の多くの痕跡を、見つけることができます。
このような立地上にあった岐阜の町に紙と竹を原料とする提灯やうちわ、和傘などの手工芸がこの地に発達したのです。これらの岐阜の手工芸品は「岐阜提灯」「岐阜うちわ」「岐阜和傘」として今日まで受け継がれています。
岐阜提灯はいつ作られた?
岐阜提灯の記載で文献上確実なものとしては、文政7年(1824)の「宮川舎漫筆」にある記事があげられます。その記事には、最近はやりの盆提灯で「薄き紙にて美しき細画を用」いたものを「岐阜挑灯」と記されています。この頃になると浮世絵の中にも岐阜提灯と該当するものが見られるようになります。その他にも岐阜提灯の記述される文献はさまざまあり、文政初期には江戸市中で使われていたと推測されます。
しかし岐阜提灯の起源については、諸説あり定かではありません。明治23年(1890)出版の「岐阜みやげ」には慶長年間(1596~1615)に創造されとあり、幕府に尾張徳川家から提灯を献上したとあります。また、明治18年出版の「岐阜志略」には、土岐成瀬の時に起こったと掲げてあり 、「増補岐阜志略」によると、宝暦年間(1751~1764)提灯屋十蔵という人物が尾張藩に御献上御用提灯を納めたとあります。その後も尾州家代々のお買上げを受け、更に天明(十八世紀)の頃には奉行黒田六一郎を通じ将軍家、大奥からも御用があったとされています。
しかし、これらの起源説のほとんどは、明治期に編纂されたもので、岐阜提灯の起源はいまだ謎に包まれています。
※写真出典:岐阜の名所・名物や町並みをまとめ
明治二十三年に出版された(所蔵元:岐阜市歴史博物館)
岐阜提灯の発展
幕末から明治維新直後の混乱期おいて、岐阜提灯の生産は一時衰退したものと考えられていています。しかし明治が始まって以降、岐阜提灯は復興、そして再び発展期を迎えます。
岐阜提灯が再び脚光を浴びる契機になったのは、明治11年(1878)10月、明治天皇の東海北陸地方巡幸でした。天皇の岐阜行幸の際、行在所となった西本願寺岐阜別院へ岐阜県の主要産品の1つとして岐阜提灯1対を献上したところ天皇の目にとまることとなります。またその2年後の多治見行幸のときには岐阜提灯200張を献上して行在所を飾ったところ、これらすべてがお買い上げとなり注目を集めることになりました。
この出来事を発端に岐阜提灯の製造を手掛ける業者が多く生まれ、その再興にあたっては、塗師や竹骨職人、一流絵師などを積極的に登用することで、製造技術、美術的価値も飛躍的に発展しました。また、その頃各地で盛んに開催された博覧会にも積極的に出品し、数々の賞を受賞するなど、岐阜提灯の全国への普及の足がかりとなっていきました。
長い時を経て日本の風土やお盆文化とともに歩んできた岐阜提灯。その歴史の中で脈々と継承してきた匠の技術。現在に至っても、岐阜提灯の持つ技術や構造的特徴を生かした様々なカタチの岐阜提灯が生まれ続けています。